4回目となった「ナースのキャリア図鑑」は、2026年1月17日(土)に開催しました。
誰しも「次はどうしよう」「看護師向いていないのかな」と考えたり、「もう看護師をやりたくない」と思う時期があったりするのですが、いろいろな働き方をしている看護職がいると知ることで道が開けることもあるのではないかと思います。
その情報源になるよう企画した「ナースのキャリア図鑑」。
学生や若い世代に、自分らしいキャリアの作り方や、楽しく働くコツを知ってもらいたいと思い、年に2回、この「ナースのキャリア図鑑」を開催しています。
ナースのキャリア図鑑 vol.4
MC
高橋亜由美 / 看護師・保健師
大学病院ICUで5年勤務後、派遣登録して短期や単発バイト、透析クリニック、訪問看護、人工呼吸器特化の病院を経て、現在は、重症心身障害児・医療的ケア児のデイサービスで週4の常勤勤務をしつつ、2021年にNPO法人あえりあを立ち上げた。
成田真唯 / 看護師・助産師
看護師として2年間NICUを経験し、現在は助産師として総合病院の産婦人科に勤務する。将来の夢はお産ができる助産院を開業すること。
ゲスト
堀井千聖 / 看護師・養護教諭1種
総合病院の急性期病棟で1年勤務後、養護教諭特別別科に進学し、養護教諭として2年勤務。結婚を機に旭川に転居し、現在は地域包括ケア病棟で看護師として勤務中。来春、養護教諭復帰に向けて奮闘中です。
中塚茜 / 元看護師
合同会社かくはなす代表社員/じもじょき.netちとせ代表
北海道生まれ。自衛隊中央病院高等看護学院卒業。北海道、九州での看護師勤務経たのち、妊娠と闘病を機に退職。専業主婦を経験し、2019年に個人事業主として開業。2020年より対話や議論を可視化するグラフィックレコーディング事業を開始。他、市民団体として市と協働で2つの事業を行う。2024年、合同会社かくはなすを創業。
小暮純弥 / 看護師・保健師
看護師16年目、大学病院心臓血管外科で看護師に挫折。「人生は一度きり!」アメリカに輸入雑貨の買い付けに行ったり、7つのアルバイトを掛け持ちしながらプロスノーボーダーを目指してみたり…。時には大学教員、時には市町村保健師に。現在は、訪問看護管理者や会社運営をしながら、ライフワークの総合型クラブ運営や子育て支援、障がいのある方や子どもたちと過ごす活動が楽しくて仕方がない。
トークライブ

高橋:新卒で大学病院ICUで5年、その後半年ほど、派遣登録してデイサービスや老健、大学の学内演習のインストラクター、などをしていました。
他にも透析クリニックで8か月、訪問看護で1年、人工呼吸器特化の病院で4年働き、2020年からは医療的ケア児のデイサービスで8時間×4日間の常勤で働いています。
2021年に「NPO法人あえりあ」を立ち上げて代表もしています。
「NPO法人あえりあ」は、医療職、看護職、介護職がすきまの時間にサポートが必要な方を有償ボランティアとしてお手伝いしたり、介護予防教室をカフェで開催したり、医療的ケア児の家族会と一緒にお出掛けをしてバリアフリー状況をレポート公開したりと、制度のすきまで活動をしています。
成田:社会人3年目です。NICUで働いた後、去年の3月から産婦人科で助産師として働き始めました。まだまだ新人です。
将来の夢は助産院を開業することです。今はまだ遠い未来ですが、助産院が大好きで旅行先の大阪で気になる助産院を見学して楽しんでいます。
学生時代に介護の有償ボランティアであゆみさんと出会い、パワフルな行動力に惹かれて今は「NPO法人あえりあ」でお手伝いをしています。今日は初めてMCをさせていただきます。
1.看護師から学校の養護教諭へ~堀井千聖さんのキャリア~

大学卒業後、総合病院に就職しましたが、希望の小児科ではなく血液内科配属になり、「自分は看護師には合わない」と悩んでいた時に、学生時代の友人から養護教諭を勧められて一年ほど考え、教育大学に一年間通って養護教諭の資格を取り、札幌の中高一貫校で2年間働きました。
結婚を機に旭川に転居すると、希望していた養護教諭の求人がなく、旭川教育委員会が募集していた「医療的ケア児の学校看護師」に応募しましたが、看護師としての経験を理由に採用されなかったんです。
看護師のキャリアを積む方が今後のためになると考え、今は病院の地域包括ケア病棟で働いています。
「養護教諭」って何をするの?
皆さんが想像するのは「保健室にいる人」だと思います。
以前働いていた学校は寮があったので、寮生の検温や体調不良の子の保護者連絡と病院受診付き添い、ホームシックになった中学生の精神的ケア、インフルエンザ予防接種、けがの処置、学校祭や修学旅行などの学校行事への付き添い、事務作業もありました。
学校内で医療・看護職は一人だけ?
勤務していた学校には養護教諭が三人いて、協力し合っていました。
卒業生が小児科医や歯科医になっているので、寮医として来てもらったり相談させてもらったり連携もしていました。
仕事内容は多岐に渡り、病院とは全然違う働き方でした。
転職のメリットデメリットは?

学校勤務で良かったことは、規則正しい生活になったことです。
土日もシフトで出勤することはありましたが、朝は早くても7時、夜遅くても19時までだったので体調に良く、自分の予定が立てやすくなりました。
でも、金銭的には新卒看護師の時よりもはるかに少ないです。
看護師で夜勤をして正職でバリバリ働いている方が給与としてはとても良いと思います。
看護師と養護教諭の両方の資格
養護教諭には一種免許と二種免許があり、二種は、保健師免許を取得済みの方は申請すると養護教諭の二種免許も取得できます。
一種免許は、四年制の教育学部に行って養護教諭資格を取るか、看護師になってから「養護教諭特別別科」を開講している大学で取るかの方法があります。
「養護教諭特別別科」は、北海道では函館の教育大学で開講しています。
北海道教育大学函館校に通った時の同期は、みんな看護師と養護教諭の資格をもっています。
中には、二種養護教諭の資格をもっているけれど、教育実習を経験したくて教育大学に通っているという人もいました。
公立学校への就職は、一種でも二種でも免許があれば可能です。道外の自治体では、資格により加点があり給与に関わる場合もあります。
以前勤めていた私立の学校では、看護資格だけでもOKでした。
転職を考えた時の壁

希望していなかった部署に配属になり、私にとっては看護師を続けることが大きな壁だったので、転職することの壁よりも、養護教諭になる壁の方が少し越えやすかったです。
自分の人生だから足踏みしてもよいと思います。
乗り越える壁は人それぞれ、その時々なので、その時の自分にとって一番低い壁を越えていけばよいと思っています
将来は?
せっかく楽しくやりがいのある仕事に出会えたので、産休や育休を使いながらキャリアを止めずに働いていきたいと思います。
2.看護師からグラフィックレコーダーへ~中塚茜さんのキャリア~

自衛隊の看護学校に通い、基礎訓練や射撃、ヘリコプターに乗って災害時の看護訓練もしました。
基礎訓練の時は迷彩服を着て、看護実習の時は白衣も着ます。
なぜ自衛隊の看護学校だったかというと、実家が貧乏だったので、当時は国家公務員扱いでお給料をいただきながら看護の勉強ができたからです。
実家に毎月仕送りをしながら、看護の勉強をしていました。
学校卒業後は、札幌の自衛隊病院の内科で勤務、その後九州の民間病院に転職しましたが、環境の変化もあり体調を崩し、結婚して二度の出産の期間は専業主婦になり、今は個人事業主をしています。
なぜ、グラフィックレコーディング(グラレコ)を?
専業主婦時代に自分の病を治したくて、600ページある専門書をひたすら図解しました。症状が出るとまた理解を深めるよう体内の仕組みの図解を繰り返す、そんな生活を7年ほど送りました。
自分のためにしていた経験が現在のグラフィックレコーダーの仕事に繋がったのです。
自分のためだった図解が、夫婦間で使い、子どもたちとのコミュニケーションにも使い、それが社会との接点に広がりました。
高橋:グラフィックレコーディングは、人が話している内容をイラストや文字で一枚にまとめるものです。
話を聞きながらリアルに描く時と、清書のようにまとめて描く時があります。
第三者に物事を伝えるツールの一つとして、文章、スライド、動画など様々ある中の一つで、図も入り、馴染みやすく和やかな雰囲気で伝わりやすい特徴があります。
私も「知ってほしいな。私のコト。」というトークイベントの時にお願いして描いてもらいました。
ずっと描くことが好きだった?

学生時代はノートを書くのが好きでした。
皆さんも専門書の横に「キラーT細胞」を描いたりしませんでしたか?
以前は自分のために文章を図解化して理解し覚えていたのを、今は第三者のために見える化して仕事にしています。
看護の専門書は難しくて自分に落とし込むには工夫が必要でした。
今は、脱炭素や環境の仕事が多いのですが、一般市民にとっては自分事になりにくいところがあります。
専門的な内容をみなさんに分かりやすく伝える役目をしている…という意味では看護の専門性を自分に落とし込んだ経験が活きているかもしれません。
看護師を辞めて思う事
「辞めるなんてもったいない」と言われることはあります。
でも、看護の仕事は好きでしたが労働環境は厳しく、妊娠中の不調やお腹の子のケアが出来ないまま出勤しなければならないきつい状況もありました。
ですから私自身は看護師を辞めてもったいないとは思っていません。
看護師の経験が今に活きていることが大きく3つあります。
1つ目は、「ケア」や「誰かと関わること」が好きで看護の道を選んだ経験は、今も仕事で関わる人たち、特に社会で困難を抱えている人たちとの関わりにも活きています。
2つ目は、「要約力」は、専門的な内容をかみ砕くことに繋がっており、
そして3つ目は、看護師時代に叩き込まれた「倫理」や身に付いた「誠実さ」は今の仕事に向き合う上でのベースになっています。
高橋:看護師ではない世界を知っているからこその視点ですね。
人それぞれの選択なので、看護師をするのも辞めて別のことをするのもどちらが正解かという答えは無いですが、逆に看護の世界から外に出たことで見えるものもあるのではないでしょうか。
どのようにグラレコを仕事にしてきた?

「もしかしたら自分がしていることはグラフィックレコーディングというものに当たるのかもしれない」と思いつつ自信がなかったのですが、たまたま北海道のグラフィックレコーダーの方と会った時に後押ししていただきました。
最初は手描きのものを無料でイベント主催者に送っていましたが、少しずつ仕事として依頼されるようになってきました。
今は、ホームページを見て依頼が来ること、リピーターとしてご依頼いただくこと、行政からの依頼など繋がりで紹介いただくこともあります。
迷いのある看護職へのメッセージ
自衛隊の教官から言われた言葉です。
「今あなたたちは国からのお金で学ばせてもらっている。もし今後、辞めることがあったとしても、あなたの力を使って社会の役に立ってほしい。」
看護でもそれ以外でも、自分の力を社会に生かしていく方法は様々あるので、やってみる、見てみる、調べてみる、つまんでみると、また違うものが見えてくるのかな、と思います。
高橋:誰もが迷う時期が来ると思います。
看護師としてキャリアを積んでいくのも一つ、違う道に行くのも一つ。
皆さん「こうじゃなきゃいけない」という思い込みがあると思いますが、自分で道を決めていってよいと思います。
3.様々な職業を経験して再び看護師として~小暮純弥さんのキャリア~

新卒では大学病院の心臓血管外科で働いていました。
副師長に怒られて一日中ナースステーションに立たされる経験をした後、朝になると吐き気がして病院に行けない、朝怖くて目が覚めるというなかなか病棟に行けない状態になり、2年で病棟看護師を離脱しました。辛かったです。
でも、その時厳しく育ててもらった余力で今も看護師が出来ていると思います。
母の影響
看護師を目指したのは母の影響が大きいです。
母が看護師で、子ども4人を育てながら3交代勤務をこなしていました。
大変なはずなのに、仕事の話を面白くしてくれる母だったので「看護師って楽しそうだ」と思い目指しました。
幅の広いキャリア遍歴
実は、大学病院を辞めることを決めたのは、ちょうど東日本大震災に遭ったことも影響しています。
3・11は夜勤の出勤途中に被災しました。
9階の病棟に辿り着いて仙台空港の飛行機が流される映像や多数の遺体が見つかったという報道を見ていました。
徐々にガソリンが無くなって職員が出勤できなくなり、病院に届く食事が無くなり、見たくないものをたくさん見て退職を決めました。
退職した後は、友人と飲食店の経営をしていたんです。
飲食店は期間限定と決めていたので、やってみたいと思っていた障害福祉の分野で看護師として働き、その後、東北福祉大学看護科の教員として「救急救命士コース」創設に声をかけていただき、申請事務や学生対応、国家試験対策などをしていました。
障害福祉分野で働いた時に、「障害福祉の分野は給料が安い」と実感しました。
地域に出ていくほど給料が安くなる。特に、障害福祉や介護の世界は安くなるのです。
定時退勤してそのまま毎日スノーボードに通えたことはメリットでしたが、年間150日くらい滑っていたので給料では賄えず、飲食店を3店舗掛け持ちしたり、塾の先生をしたり、引越し、保健師の特定保健指導…と一週間に7つの仕事をしていました(笑)
お金が貯まったら海外へ行き、輸入雑貨の買い付けもしましたね。

結婚し、子育てに合う時間の使い方がしたい、より安定した仕事に就きたいと考え、公務員試験を受けて市役所の保健師に転職しました。
保健師になったばかりの時期は、母子保健や精神保健からスタートすることが多いですが、過去の職歴から障害福祉課に配属されたのだと思います。
今は、訪問看護ステーションで働いています。
スタッフとして入職しましたが、4か月後には管理者になり、上司から「管理者ではなく会社運営を手伝ってほしい」と言われ、今は本部にいます。
転職回数はここにいる中で一番多いと思います。
やっていない職種がないくらいいろいろしましたが、生きていけるし結婚出来るし息子二人を育てられるので大丈夫です。何とかなります。
一歩を踏み出す壁は無い?
何事もやってみないと分からないと思っています。
そして、人生は一回なんですよね。
夢ノートを書いていて、約50個の夢を書いたうち、50歳までに叶えたい夢は、残りは8つ。
「看護師のキャリア支援をしたい」という夢が今日叶ったので、あと7つです。
いつも「今日が最後の日かもしれない」「今日もやりきったー!さいこー!と思いながら寝れたら幸せ」と思って毎日生きていて、後悔したくないので、あまり迷わずトライしています。
新たな活動

宮城県の気仙沼という被災した地域で、友人(理学療法士であり、元プロ車椅子バスケットプレーヤー)と共にスタートさせた「総合型地域スポーツクラブ」を運営しています。
部活動を地域に移行しようという文部科学省の意向に沿って、地元の子たちが地域スポーツ、障害者スポーツ、ユニバ―サルスポーツ、パラスポーツを楽しめる場を作りました。
気仙沼の校長会に「ぜひ総合的学習の時間をください」とお願いに行き、共感してくれた校長先生の学校で、車椅子やボッチャを持って行って授業をしました。
また、「あべこべマルシェ」に障害のある子や国籍の違う子が出店し、お給料を渡してマルシェ内で買い物の楽しさを味わってもらうことや、「難病の子ども支援全国ネットワーク」で実施しているキャンプで、重度心身障害のお子さんたちに外出の機会をもってもらう取組もしています。
お父さんお母さんが子どもたちのケアから離れてリラックスする時間も大切なので、実行委員をしながら看護師の僕たちが医療的ケアも担っています。
他にも、子育て支援の活動をしたり、三味線奏者とコラボをしたり、下肢障害の方と装具を付けてスノーボードをしたりもしています。
高橋:今までの経験がどこかしらで繋がり「あの時にしていたことが今生きてくる」ことが複数起きていることを感じました。
一点のみをみると無駄なことをしていると思ってしまうかもしれないし、はたから見ると「もったいない」と言われる時期もあるかもしれない。
当時は辛かったけれど、厳しく指導されたからこそ基礎ができて、今に活きていることがあるのもよく分かります。
誰しも辛い時期があるけれども、その先にこうしてやりたいことを存分にしている方もいるということを知ると、また考え方が変わってくるのではないでしょうか。
若手看護師へのメッセージ
その時に選んだことが、つながりのない点と点のように見えて、周りから「もったいない」と言われることも、家族から理解されないこともあるし、コロナ禍に市役所で保健師をしていた時は、激務で鬱になり、家から1歩も出られず首を吊ることも考えたくらい精神状態が落ちたこともありました。
その中でも得たものがあって、今、こうしてイキイキと生きています。
必ず希望はあるし、必ずなりたいようになれるし、人生は伏線回収が待っています。
楽しんだ者勝ち、です。一緒に楽しみましょう!
参加者アンケート
トークライブ

- 20分が一瞬に感じるほど面白かったです。司会のお二人は悩める看護学生の立場に立って、まさにそれが気になっている!というようなことを聞いてくださりありがたかったです。
- 綺麗すぎないリアルが聞けてすごく参考になります。
- 対話形式で、自分も会話の中に入ったように楽しく聴くことができました!
- 皆さんの人生と、それぞれの方が持つ考え方を知ることができ、勉強になった。自分は、将来安定した職業で暮らしていきたいという思いと、様々なことに挑戦したいという思いがどちらもある。そのため、様々なことに挑戦をしている方からの話は刺激的だった。
交流会


- 周りにあまりいない経歴の方とお話しでき、貴重な機会で嬉しかった。将来の職への不安が軽減された。
- 距離が近いので各テーブルの状況がわかり、話したい人がいればすぐ行けるし、席で落ち着いて話すこともできました。
- 既卒が学生さんと仕事外で話せることって余らないので素敵な機会だなと感じています。既卒同士もカジュアルに名刺交換出来たり良い雰囲気でした。
- 学生の頃にこんな交流会に出会いたかったです。自分のコミュニティ外の人と出会えてとても勉強になりました。


